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時間‐空間‐存在 これらは私が作品を作るうえでのテーマであることは、きっとこの先も変わらないのだが、今更ながらのこのテーマを別な角度から見る機会を教えてくれた芸術がある。それが【能】だ。
この【能】という日本人のDNAがたっぷり詰った芸術に、なぜ自分は今までもっと積極的に興味を持ってこなかったのだろうか。 ともあれ【能】に関して全くの素人である私が、満次郎氏のおかげであらためて【能】というものに接し、撮影する機会を重ねていく度に、ファインダー越しに魂が揺さぶられていったあの感覚が何なのか、自分なりに解釈してみたくなった。 私が惹かれたのは仏教的な世界観、つまり自然の中に聖なるものを見いだし畏敬する(時には一体化してしまう)アニミズムであり、また、あたえられた空間(能の中では舞台)の中で生と死が連結し、死というものを感じることが生への道標になりうるシャーマニズム的な部分かもしれない。 能の舞台には何もないように見えるが実は様々なものがそこには存在している。 『無いけど有る』のである。 観る側が目には見えないものを洞観する力を養わなければならない点においては、ある意味で能を観賞するというのは修行のようでもあるといえる。 能の舞台がシンプルなのは、人間を含めたあらゆる存在、意識、事物、現象はすべて時の流れとともに常に変化し、固定された実体というものが何も無いという、仏教の『空』がそこに存在しているからではないかとさえ思う。(そのようなことを考えるのは自分が最近「般若心経」にはまっているせいなのか)まさに色即是空(あらゆるものは空である)空即是色(空はあらゆるものでもある)。 たとえば演目「邯鄲」に出てくる「人生何事も一炊の夢」というセリフは、まさしく主人公の『苦』を脱するための真理が隠されている。 万物は流れ転ずるもの、すなわち「私」という我執から逃れ、一日一瞬を充実させながら生きていきなさいと説く般若心経の教えと相通ずるものを感じる。 【能】の世界では時間と空間の境目がわかりにくく、あの四角い舞台と廊下で簡単にあの世に行ったり、過去に行ったりできてしまう。それがどこでわかるのかは、シテ方やワキ方のその時の立ち位置などである程度決まっているようなのだが、昔の人はなんとも厄介で繊細なものをごく普通に自然と自分の中に取り入れることができていたようだ。それは一言で言えば想像力だ。その点で、現代人の感性は昔の人に比べ劣っているのではないか。 「存在と不在は同時に見えるものだ」と言ったのはドイツの哲学者であるハイデガーだが、私は日ごろからハイデガーの哲学に関心があり、ある日、実存主義というくくりで語られることの多いハイデガーは、極端な言い方をすれば、むしろ仏教的思想家であることに気がついた。特に後期のハイデガーの言葉は、仏教を西洋哲学風にアレンジしているようにさえ思える。 代表作では【存在と時間】(ドイツ語訳だと有と時)を書いたハイデガーだが、禅宗曹洞宗の開祖《道元》の著書である【正法眼蔵】に「いわゆる有時は、時すでにこれ有なり 有はみな時なり」と存在と時間は分けられないことが説かれていることを知り、自分の哲学がすでに遠い昔に日本という国で明らかにされている事実に驚嘆したといわれている。 現にハイデガーは、浄土真宗の宗祖である《親鸞》の【歎異抄】を読んだあとに「もし10年前、東洋にこのような聖書があったと知っていたら自分はギリシャ語もラテン語も学ばず日本語を学び、世界にこの聖書を広めていただろう」といっている。 そんなハイデガーが【能】を見ていたら一体なんと言ったであろうか。 手の動き、足の運びひとつひとつに意味があり、時空を自在に行きかうこの芸術に大いに興味を示したに違いない。 人間は死に向かう存在、人間は不安に駆られながらも自分の死と向き合うことで本来の生き方に目覚める、とハイデガーは主張する。その言葉には現代人が想像するようなゲーム的で非現実的な死ではなく、生に張り付いたリアルな死というものの捉え方が込められている。死を意識することで生が充実するという考え。【能】の中にもまた同じように感じられるものが存在している。時に死者の声を聞き、死者に会うこともできる【能】の中では、現代人が見えなくなっているものをも見ることができる。 ところで、ハイデガーのいうところの「存在」とは、人間存在のことでもありながら、実はそれをも巻き込むもっと大きな存在のことを知ろうとしているようだ。 それは明らかにしようともがけばもがくほど遠くに行ってしまうものかもしれない。 一神教に基づいた西洋哲学の限界を感じはじめていたハイデガーが、その後期には仏教的なものに行き着いたというのは自然な流れなのかもしれない。 『空』というものはイコール『無』ではない。では何か。それは言葉では到底表現できるものではなく、形として表現するにもイメージを伝えるのが限界であり、結局それでは『空』の本質はわからない。『空』を円で例えると我々はその廻りを巡るだけ。まわりを何度も何度も巡ることによって、中心を感じ取ることはできるが、実際にその内側に入る事は出来ない。 その中で人は思索しながら生きていく。この「思索しながら生きる」ということが最も大事なことなのである。 「能は哲学だ」とは満次郎氏の言葉だが、同時に氏は「【能】をどう見るかは人それぞれで良い」という懐の深さにも言及している。つい物事を深読みしたくなる私のような人間には、【能】が興味の尽きない芸術であり哲学であることは間違いないようだ。 2010年2月 佐藤晶子 |
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